ガリレオ裁判「最終判決文」
1663年6月22日、ドミニコ会修遺院ミネヴァ聖マリア聖堂。白衣で身を包んだガリレオに向かい、裁判官が「判決」を下します。
1971年11月10日、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、ローマ教皇庁立科学学士院で開催されたアルバート アインシュタイン生誕100年記念祝典で「ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ」について講演し、ガリレオ間題を再審する調査委員会の発足を表明、教皇庁科学学士院に対し、ガリレオ間題の再調査を命じます。
この要請に基づき、1981年7月3日、口一マ教皇庁は、ガリレオ事件調査委員会『16世紀から17世紀にかけてプトレマイオス主義者とコペルニクス主義者との間で行われた論争を研究する調査委員会』を設立します。
そして、1992年10月31日、委員会文化部門座長ポール・プパール枢機卿は、10数年に及ぶ調査研究をもとに、ヴァチカン宮殿内の科学学士院で、「ガリレオ事件調査委員会報告」を行い、ガリレオ裁判に対する教皇庁の見解を明確に自已批判することになります。
同日、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、枢機卿の報告を受け入れ、ガリレオ ガリレイへの名誉回復と地動説を承認する「最終声明」を出し、300年以上の時を経て、ガリレオの「復権」が果たされることになります。
判決理由を読む
判決によって歴史や人の運命は簡単に折り曲がる、ということは誰しも暗黙知であるはずですが、ガリレイ裁判のように「復権」が果されるかというとそうではないようです。
むしろ、非業の死を遂げ、歴史に埋もれたまま、発掘もされないことの方が多いでしょう。
判決文とは、要するに、人を死刑にできる程度に裏打ちされた権力をもつ役人の作文なのですが、同時に、最高度の清潔さを宿命づけられた者の宣言告白でもあり、それゆえ、ケースによっては、品格と不覚、明快と偽盲とが同居しがにちなる、と言ってよいかもしれません。
したがって、そこには、格調の高さとともに理解しがたい美辞麗句が潜んでおり、詩的陰影での誤魔化しもあれば、官僚的邪推による立法的抑制もしくは忌避もありうることになります。ときに国家の作為すら感じることもあります。
だからこそ、裁判官の科白は、よくよく吟味が必要となります。
本シリーズでは、法の番人たる裁判官の「判決文」について、特に「判決理由」の箇所に焦点を当て、その奇異と変遷を追います。
取材構成
本シリーズは事件研究班が担当します。
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