事件の記憶×時効01|三億円事件「第四現場」

三億円事件「第4現場」

DSCN0087.JPGC2棟から撮影。22棟の団地は山王窪という地に立ち、独特のコミュニティを形成、車での侵入経路は7つに限られる。

DSCN0083.JPG現在の来客用団地駐車場。正面がB1棟。DSCN0084.JPG山王稲穂神社入口から右に仙川が走る。DSCN0088.JPG団地は「築樋」という堤に囲まれ、解放的ではない。
DSCN0089.JPG「山王窪の築樋」土手から撮影。B1号棟が死角だ。DSCN0090.JPG水のない仙川がそばを流れる。DSCN0091.JPG左が山王神社。右手奥に団地駐車場入口がある。


三億円事件―実行犯が消えた最後の現場
「第4現場」が映しだす真実




推移

1968年(昭和43年)12月10日、午前9時20分頃、府中刑務所北(第1現場、府中市栄町3-4の)学園通りを、東芝府中工場のボーナス用現金2億9430万7500円を積んだ日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が通りかかった際、白バイ警官が左手を上げて停止させた。

「小金井署から緊急手配が来ている。日本信託銀行巣鴨支店長宅がダイナマイトで爆破された。この車にも爆発物が仕掛けられている」などと告げ、輸送車4人を降ろさせた。

男は輸送車の底で隠し持っていた発炎筒に点火、「ダイナマイトだ」と叫んだため、4人は200メートルほど避難した。警官を装った男は現金輸送車の運転席に乗り込み、そのまま車を運転して逃げ去った。

午前9時28分、4人は日本信託銀行に「検問」の旨を連絡。
午前9時31分、銀行から警察に照会が入る。
午前9時45分、警察が現場に急行。
午前9時50分、強盗事件として検問開始。

午前10時18分、国分寺史跡七重の塔近くの本多家墓地の入口(第2現場、国分寺市西元町3-26)に現金輸送車を発見。

同日午後5時頃、明星学苑高校交差点付近の空地(第3現場、府中市栄町2-12)に、盗難車(第1カローラ)を発見。

同年12月21日、捜査本部は、犯人のモンタージュ写真を作成。

翌年4月9日、「東京都住宅供給公社本町住宅」 B1号館西側駐車場(第4現場、小金井市本町4-8)で、緑色のシートが被され、後部座席に空のジュラルミンケースが積まれた車(第2カローラ)を発見。

1975年12月10日午前零時、時効成立。


41年目の真実

この事件では、犯人のモンタージュ顔写真と強奪の実行現場である府中刑務所塀壁とその横に留められた偽白バイの写真は有名だが、空のジュラルミンケースが積まれた盗難車が発見された第4現場は、それほど知られていない。

現在、第1現場は、当時の刑務所監視塔から監視カメラに変わり、コンクリートの灰色塀はパステルブルーの塗料が塗られ、白いパネルがはめ込まれている。

第2現場の雑木林は管理された芝生に変わり、南側に押し寄せていた家並みが消えている。第3現場も都市整備下、景観は一変している。

他方、第4現場は、窪地の低地を利用して建設された団地の形状を維持、戦後高度経済成長を支えたサラリーマン家族を呑み込むようにして、独特のコミュニティを形成した。一帯の風景の原型は変わっていない。

本誌では、第4現場に注目し、事件捜査を検証する。













山王稲穂神社

江戸城の守護神として三百年あまり天下安泰の江戸麹町(東京 赤坂:日枝神社)山王宮より承応3年(1654)下小金井の新田開発のため、御分霊を祭る。HPより抜粋
斎藤祐樹投手で一躍有名になった山王稲穂神社。



仙川

東京都小金井市貫井北町附近から、武蔵野市・三鷹市・調布市を経て、世田谷区鎌田で野川に合流する多摩川水系の一級河川、延長20.9kmである。
小金井市・三鷹市間は一部暗渠の水路で通常水が流れることはない。下流ではある程度の水量がある。



山王窪の築樋

山王稲穂神社の先、団地入口付近から遊歩道となっている。この堤を「山王窪の築樋」という。江戸時代に玉川上水から分水した小金井用水が、赤土を盛った築堤で川を越えていた場所である。両側は低い谷を形成し、この遊歩道だけが一段高くなって続いている。
小金井分水の案内によれば、「承応3年(1654年)に玉川上水が開設。付近の村々は呑用水、田用水として分水を幕府に願い出る。小金井村分水は元禄年間(1688 - 1704年)に許可が出る。水路は山王窪(稲穂神社北側)の築樋を通り、小金井村に分水された。明治3年(1870年)、玉川上水の通船事業(明治5年廃止)に支障があるとの理由で、旧分水樋口や、井筋が廃止・統合される。新たに砂川用水が延長され、小金井村分水はこの場で分水されるようになった」という。